奄美群島,  歴史上の人物

秘境・沖永良部島の「世の主伝説」!!自決して島を守った王様の物語。

こんにちは、ドクターリトーです。今日は先日取り上げた沖永良部(おきのえらぶ)島に伝わる、興味深い歴史について書いてみたいと思います。その歴史については、島では「世の主(よのぬし)伝説」と呼ばれています。

【沖永良部島情報】

《アクセス》那覇港、もしくは鹿児島港からフェリー。もしくは、那覇空港、鹿児島空港から飛行機。アクセスが意外と大変な離島だったりします。

《宿泊》民宿、ホテルなど多数あり。個人的には、「スリー・ハピネス」(素泊まり)が感じが良くて好きです。

《食事》食堂のみならず、スーパー・コンビニ(24h)もあるので、困ることはないでしょう。

 

◾️世の主伝説

 

話は沖永良部島から沖縄本島に、少しばかり飛びます。

時は1400年頃。沖縄は当時三つの国に分かれて争っておりました。北山王国、中山王国、南山王国の三つの国です。さながら中国の三国志のような時代が、かつて沖縄にもあったのです。

 

地図で見ると三国の領地はこのようになります。北山王国が一番面積は大きく、中山王国は現在沖縄県の県庁所在地の那覇を支配しています。南山王国は面積が一番小さいですね。

沖永良部島は一番北の北山王国に属しておりました。そしてその頃沖永良部島を治めていたのは、世の主(よのぬし)と呼ばれている王様でした。

 

よのぬし

こんな感じの人だったでしょうか。

 

◾️平和だった世の主の治世

 

世の主は北山王の次男で、沖永良部島の統治を北山王から任されておりました。善良な君主で、よく整った政治を行い、島民からも非常に慕われていたと言います。沖永良部島は世の主の治世において、非常に平和な時代を満喫していたようです。

しかし沖縄において、政情に変化が起こります。巴志(はし)という男の登場によって、沖縄は一つの国に統一される方向に動いていったのです。

 

◾️中山王国による琉球統一

 

沖縄の歴史に詳しい人ならご存知だと思うのですが、この巴志とは、後に琉球王国を打ち立てる事になる尚巴志のことです。

巴志は元々、南山王国の一豪族でしたが、中山王国の国王を戦において殺し、自分の父親を中山王にして実権を握りました。そして軍事力では三国で一番力を持つ北山王国と争うこと10年、ついに北山王国を滅ぼしたのでした。そして世の主の兄に当たる、北山国王の攀安知(はんあんち)は今帰仁城にて自害してしまいます。

ちなみにこの北山王が自害した今帰仁城(なきじんグスク)、現在ではユネスコ世界遺産に登録されています。壮大な城壁を持つ素敵なお城です。

 

IMG_0964

 

→詳しくは、こちらの今帰仁城についての記事を御覧ください。

http://ritou-navi.com/2016/04/08/まさに琉球のラピュタ!!世界遺産、今帰仁城(/ 

 

◾️世の主の憂鬱

 

さて困ったのは、沖永良部島の世の主。

北山王国が滅びてしまったことで、小さな沖永良部島で取り残されてしまいます。頼ることもなくなった小さな離島にで世のぬしは鬱々と過ごしておりました。いつ中山王国の軍勢が攻め込んでくるか分かったものではありません。この状況ではどうやって愛する島の島民を守って良いか、見当もつきません。世の主は過度のストレスが原因で、城の中に引きこもってしまいました。

しかしそんな折、中山王国の船が数隻、海を越えて沖永良部島へととうとうやって参りました!

 


(こんな唐船だったでしょうか・・・?)

 

◾️世の主、島を守るために自害する

 

恐怖に取り憑かれた世の主は自身は城に引きこもったままで、使者を中山の船が着いた浜へと派遣します。中山の船が和睦の船か、それとも離島を攻めにやってきた軍船か、確かめさせるためです。

世の主は、使者にあることを言い含めました。「中山の船が和睦の船である場合は白旗、征伐の船である場合は赤旗を掲げて城に知らせろ」と指示したのです。

使者は殺されるのではないかと、内心怖がりながら仕方なく与和の浜へと向かいます。しかし待っていたのは意外なことに、使者をもてなす華やかな宴会でした。中山の船はありがたいことに和睦の船だったのです。

すっかり安心した使者は、酒を勧められるままに飲み、緊張が解けたこともあってか、ひどく酔っ払ってしまいました。そしてうっかりと旗のことは忘れてしまいました。

 

酔いも覚め、ようやく世の主の言いつかった仕事を思い出した使者は、旗を掲げようとします。しかし、酔っ払った使者はなんと間違って赤旗を掲げてしまったのです。

城で身を固くして知らせを待っていた世の主は赤旗を見て、船を軍船だと思い絶望しました。そして「この小さな島で中山王国に敵うはずもない」として、島の島民を守るべく、奥方共々、自決してしまったのです。

これが沖永良部島に伝わる、世の主伝説です。非常に惜しいというか、何だか痛々しい話です。もう少しで、世の主は助かったかも知れません。

ただ私の個人的見解としては、世の主は、中山の治世で生きることより、むしろ北山王国と共に死ぬことを選んだ。そういう気がしますが。だから世の主はいずれにしても自決していたのではないかと、そう思います。

 

◾️世の主の墓

 

世の主の死後、離島を守るために早まって自ら死を選んだ世の主を島民たちは丁重に葬りました。

 

11066062_2052226793_180large

 

これが世の主の墓です。なかなかの広さを持ち、非常に立派なものです。

全体的に山が少なく平らな沖永良部島においては、200メートルの高さを持つ小高い越山のふもとにあります。

石積みの石垣が素敵で、崖を彫り込んで作った琉球式のお墓です(トゥール墓といいます)。この墓の前に佇むだけでも、世の主に対する島の人々の感謝の思いが伝わってくるように思います。

 

◾️世の主の墓に行ってみよう

 

それにしても、中山の船が到来したことで一戦も交えずに自決してしまった世の主という王様。沖永良部島で暮らす人たちの、争いを好まない温和な気質をまさに表しているような話だな、と私には感じられます。

沖永良部島にお越しの際には、是非立ち寄っていただいて、往時の様子を偲んでいただけたら、世の主に対する慰めにもなると思います。

Translate »