朝鮮通信使に豊(とよ)砲台・・外交と国防の最前線であり続けた対馬!!
こんにちは、ドクターリトーです!今回の記事では、長崎県の対馬(つしま)を扱いたいと思います。
【対馬情報】
《アクセス》福岡空港、長崎空港から飛行機。もしくは、博多港からフェリー。長崎の離島ですが、長崎からの航路がありません笑
《宿泊》ホテル、民宿多数あり
《食事》「いりやき」という郷土料理があるそうです。食堂・レストラン多数あり(大きな島なので)。蜂蜜も有名です。
◾️朝鮮から近い対馬
対馬は、朝鮮半島からすぐ近くの位置にあります。韓国の釜山(プサン)から、なんと49キロの距離!!
九州から対馬の距離よりも、はるかに近いです。
異国と接する境界の離島。そういう地理的な要因があり、対馬は歴史的に、日本の外交と国防の最前線であり続けました。
◾️朝鮮通信使
対馬の中心市街、厳原(いずはら)の街には、こんな不思議な郵便ポストが設置されています。
韓国の建築に似せて作られています。「朝鮮通信使」という、江戸時代に李氏朝鮮から日本に遣わされた外交使節を記念したものです。
こんな変わった服装を着た朝鮮の人々が、江戸幕府の将軍が変わる度に、日本に招かれました。
対馬は、朝鮮通信使が日本を訪れるのに、通るルート上にありました。
そして、朝鮮通信使が成立する上では、対馬の大名、宗氏(そうし)の貢献が非常に大きかったのです。
江戸時代が始まる前、豊臣秀吉が朝鮮侵略をしたことは、有名な史実であると思います。
朝鮮侵略によって、日本と朝鮮との関係はすこぶる悪化しました(当然ですが・・・苦笑)。
その後、徳川家康が天下を取り、江戸幕府が成立すると、朝鮮との関係改善に乗り出しました。
しかしそう簡単に関係を修復できるはずもなく、朝鮮半島との取りなしは、対馬の大名であり、昔から朝鮮半島との関係が深かった対馬の宗氏(そうし)に委ねられました。
宗氏は、朝鮮の信頼を取り戻すために、大層骨を折ったと言います。
そして宗氏の努力が実って、朝鮮通信使が日本を訪れるようになったという訳です。
朝鮮通信使は、日本の文化や世界観に、大きな影響を与えました。だから日本の在り方に影響を与えたという意味でも、対馬は重要な役割を果たしたと言えるでしょう。
◾️豊(とよ)砲台跡
対馬は、異国との境界線であり、また海峡上にあるので、国防においても重要な地点であり続けました。
日露戦争の日本海海戦で、連合艦隊とバルチック艦隊が激突したのも、ちょうど対馬の沖でした。
こちらは洞窟みたいになっていますが、豊(とよ)砲台跡です。対馬の北端にあります。
戦前には、ここに大きな砲台が据えられていました。廃艦となった、軍艦「赤城(あかぎ)」の主砲が取り付けられました。到達距離、30キロの砲台は大きな抑止効果になり、対馬に対する攻撃はなかったらしいです。
http://blowinthewind.net/haikyo/tsushima/tsushima.htm
砲台が据えられていたところは今では空き地になっており、内側から空が見えるようになっています。
いい景色ですね笑
当時は地下には、こんな施設が埋め込まれていました。
◾️国境の島の宿命
その他にも、元寇の時など、常に対馬は日本の最前線に立ってきました。国境の離島の宿命ですね。
対馬に訪れた時には、日本の最前線としての対馬が辿ってきた歴史に、思いを馳せてくださいませ。