第二次大戦で波照間の住民が犠牲に!西表島・南風見田の浜の「忘勿石(わすれないし)」
こんにちは。ドクターリトーです。
今回の記事では、西表島の南風見田(はえみた)の浜という一風変わった名前のビーチにある、忘勿石(わすれないし)という、これまた一風変わった名前の史跡について扱いたいと思います。
◾️西表島
南風見田の浜は、西表島の大原港から西に数キロ行ったところにあります。大原港近くで自転車か原付を借りると行きやすいと思います。
道中には、八重山らしい、さとうきび畑と海のコントラストの風景が広がります。海の上に少し膨らんでいる部分が見えるかと思いますが、それは波照間島(はてるまじま)の島影です。波照間島は西表島のさらに南に浮かぶ、日本最南端の有人島。波照間島は今回の記事には深く関わってきます。
◾️南風見田(はえみた)の浜
標識に従い、浜が近づいてきました。
こちらが南風見田の浜。一面浅瀬が広がっています。それなりに美しいビーチです。
忘勿石は、この浜の東寄りにあります。周囲には巨石が並ぶ、殺風景な風景がひろがります。
◾️忘勿石
こちらが、忘勿石のレプリカ(忘勿石の本体は付近にあるらしいのですが、今回見つけることはできませんでした)と、そして祈念碑です。「忘勿石 ハテルマ シキナ」とあります。
どういう意味かというと、ハテルマは波照間。シキナは、「識名」。戦前の波照間国民学校の校長の名前です。
◾️マラリアで集団死亡
第二次世界対戦中、波照間島では、軍命にて西表島への強制疎開が行われました。そして疎開先が、この南風見田の浜だったのです。
この南風見田の浜を含む西表島は、かつてはマラリアの汚染地帯でした。そして疎開先のここで波照間島の住民たちは、ほぼ全員がマラリアに感染し、三分の一が死に至るという悲劇を迎えたのでした。
近日、ドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」という映画を観たのですが、それによると、この疎開は住民の保護を目的としたものではなく、八重山全体の軍事目的のための犠牲という色彩が強かったようです。陸軍中野学校出身の軍人が、偽名「山下虎雄」を使って島の青年教員になりすまし、のちに軍人としての顔を出し、集団疎開を強行したそうです。
そういう訳で、今でも波照間ではこの一件について、怨恨となっているようです。
ドキュメンタリーの中では、山下に対して「むしろこちらが殺せばよかった」と島の人は凄んでいました。余程です。
死亡者には児童も多数いて、その死を悼んだ識名校長は、この悲劇を忘れる勿れという意味で、「忘勿石 ハテルマ シキナ」と石に刻みつけたということです。
「沖縄戦」というと、沖縄本島の戦災の悲劇がクローズアップされがちですが、直接の戦闘ではなくマラリアによる悲劇も同じく「沖縄戦」の被害者であると思います。八重山での戦災の記憶を今に伝えるのが、この忘勿石です。
◾️海の色の折り鶴
祈念碑の前には、折り鶴が置かれていました。この折り鶴は、海の色を象徴しているに違いありません。そして波照間島の随一のビーチである「ニシ浜」の色合いをイメージしてあるのかなと、勝手に思いました。
◾️第二次大戦の悲劇に思いを馳せよう
故郷の波照間島を間近に眺めながら死んでいった島の住民たち。どのような心境だったでしょうか。
西表島はリゾート地であり、まずバカンスに来る人が多いと思いますが、第二次大戦が生み出した悲劇にも思いを馳せてみるのもまた良いかと思います。