国後島とゴローニン事件。北の海で活躍した大商人・高田屋嘉兵衛!!


 

こんにちは、ドクターリトーです。

 

今回の記事では、高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)という、幕末の日本に生きた、ある偉大な商人の物語について扱いたいと思います。

 

「菜の花の沖」という作品ですが、司馬遼太郎も高田屋嘉兵衛題材にして、歴史小説を書いたりしています。

 

・・・先日、北海道・函館の街を訪れる機会があったのですが

 

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高い塔の上に、銅像が建てられていました。この人こそが、高田屋嘉兵衛です。

 

何故函館に高田屋嘉兵衛の銅像があるかというと、嘉兵衛は函館の街を開拓した開祖だからなのですね。

 

函館は18世紀、人口3000人ほどの寒村でしたが、嘉兵衛によって街としての発展の基礎が作られました。湾内の埋め立て、港の整備、道路改修、造船所の計画など、様々な事業がなされました。そして後の函館の街の発展の礎となったのです。

 

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函館には、高田屋嘉兵衛を顕彰した、「函館高田屋嘉兵衛資料館」もあります。

 

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このような、昔実際に使われていた倉庫を改装した、非常に美しい建物を利用して資料館は作られています。

 

 

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この高田屋嘉兵衛ですが、生まれは北海道とは関係なく、瀬戸内海の淡路島です。

 

嘉兵衛が生まれたのは、淡路島の西海岸にある都志(とし)という、小さな村でした。

 

嘉兵衛は貧しい農家の生まれで、少年期から奉公に出されたり、恵まれた環境に育った訳ではなかったようです。

 

そんな中でも、海と船が好きだった嘉兵衛は、いつしか瀬戸内海を行き交う商船に乗り込むようになり、水夫からあっという間に「沖船頭」への異例に出世を果たしました。

 

そして1796年、28歳の時、当時としては最も大きな千五百石積みの船を新造し、独立への一歩を踏み出しました。

 

このあたりから、嘉兵衛は北の海を目指すようになります。

 

嘉兵衛の功績として大きいのは、北方漁場の開拓です。国後島から択捉島への航路を拓き、未開の択捉島に多くの漁場を開拓しました。「北方領土の祖」とも言えるかも知れません。

 

しかし高田屋嘉兵衛の功績として最大のものは、「ゴローニン事件」の解決でしょう。

 

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ゴローニン事件とは、1811年にロシア軍艦の船長ゴローニンが、国後島にて、幕府により捕らえられた事件のことです。

 

ゴローニンは函館へと護送され、そのまま幽閉されてしまいます。その結果、日本とロシアの関係は一触即発の状態になってしまいました。

 

そんな折、1812年、今度は高田屋嘉兵衛がロシア軍艦のリコルドに捕らえられ、カムチャツカへと連行されてしまいました。

 

しかし嘉兵衛は臆することなく、むしろ日本とロシアの関係を改善するための好機としました。

 

嘉兵衛はカムチャツカの地で必死にロシア語を覚え、リコルドとの信頼関係を作り上げることに成功しました。

 

そしてゴローニンが釈放されるように手はずを整え、無事に国際問題を解決したのでした!!

 

 

ゴローニンが後に記した「日本幽囚記」の中で、嘉兵衛のことを「高潔で尊敬できる日本人」と紹介しています。

 

世界の人々は日本幽閉記を読み、高田屋嘉兵衛のことを賞賛したと言います。

 

高田屋嘉兵衛、商いから街の開拓、そして北方領土の漁業の振興、そしてゴローニン事件の解決まで、まさに千人力の大活躍をしたのでした。

 

幕末期の日本に、こんなにグローバルな視野を持った人物が存在したこと。日本の誇りにしても良いのではないでしょうか。

 

・・・ちなみに高田屋嘉兵衛の資料館、函館だけでなく淡路島にもありますので、是非行ってみてくださいね。

 

 

さあ、島旅に出ましょう!!

ritou-navi.com(離島ナビ)

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