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村上水軍の史跡観点から回る周防大島。創業80年イガワ製菓の「みかん島」も是非。

こんにちは、ドクターリトーです。今回の記事では、瀬戸内海でも面積の大きい離島、周防大島(すおうおおしま)、またの名を屋代島について取り上げてみたいと思います。

 

周防大島は色々な魅力を備えた離島であると思われますが、今回は瀬戸内海を戦国時代に広く支配した村上水軍の史跡の観点から見ていきたいと思います。何か一つのテーマを決めて旅行をしてみるというのも、面白いかなあと思いました。

 

◾️島で見かけた村上水軍の案内看板

 

 

松山から山口の柳井へとフェリーで移動したので、せっかくなので周防大島にも立ち寄ることにしました。

 

といっても、何を見ようかとはっきり決めていなかったのですが、上の看板を見て「そうだ!村上水軍史跡巡りにしよう!」と決めました。

 

周防大島には、意外と村上水軍関連の史跡が多いようです。看板で取り上げられているのは、7箇所もあります。あまりそういうイメージはなかったのですが。

まあ村上水軍は瀬戸内の広いエリアで勢力を誇っていたので、当然と言えば当然かもしれません。

 

◾️まずは村上水軍の大黒柱、村上武吉の墓へ!

 

 

村上水軍と言えば、象徴的な人物として戦国時代に全盛期を支えた村上武吉(むらかみたけよし)がいます。村上武吉は能島村上水軍の棟梁であり、豊臣秀吉にすら最後まで独立を貫きました。

 

 

「村上武吉永眠の地」。村上水軍史跡巡り、手始めにまずは棟梁に挨拶といきましょうか!

 

 

こちらがお墓。意外とこじんまりとしています。

 

死後約500年が経過しても、未だに献花がされています。そこまで至れり尽くせりしてもらえる人物は、そうは多くはないでしょう。やはり偉大なり。村上武吉。

 

 

 

海賊だけあって、海が見える墓地に葬られているようです。海の男の墓としては、とても似つかわしい。

 

◾️次は、村上家一族の墓地へ。

 

 

こちらは、正岩神社。こちらには、村上武吉でなく、村上家の墓があります。家の墓って感じかな。

 

 

「上」のマークが、村上家の証拠。

 

 

他にも面白い墓が数多くあります。

 

 

この写真の左側のお墓なんて、とてもアーティスティック。

 

◾️「越前守島君碑」

 

 

お次は少し離れたところにある碑文。

 

 

びっしりと漢字が彫りこんであり、判読するのは難しそう。看板によると、村上家の親戚の「島」家のものだそう。

 

実績を誇るために作られた碑文だそうです。詳しいことはよく分からないのですが。

 

この碑は場所が分かりにくかったので、近所の人に尋ねてようやく見つけ出すことができました。

 

 

しかし石碑に彫られた家紋は、村上家と同じ「上」。ほぼというか、全く同じです。

 

 

◾️名前が面白い。筏八幡宮。

 

 

こちらの、灯篭が立ち並ぶ不思議な神社は、「筏(いかだ)八幡宮」。

 

名前に「筏」がつくなんて、面白いです。いかにも村上家ゆかりの神社らしい。

 

 

ちなみに周防大島に村上水軍関係の史跡が多いのは、天下統一がされてから、ここ周防大島が村上家の所領になったから。

 

毛利家が長州に移された際、毛利家の臣下となっていた村上家も共に移動していったのです。

 

村上水軍といえば、しまなみ海道沿い、芸予諸島が縄張りで根拠地だったのですが、世が治ってからは西へと動きました。

 

戦国時代の乱世には、海賊の活躍する余地が大きかったのですが、平和な世の中になると、海賊たちの生きる場所は日本、瀬戸内からなくなっていきました。なぜなら、支配者たちにとって、独自勢力である海賊がいてもらっては困るからです。

 

そういう訳で海賊たちは海の上から遠ざけられ、排除されていきました。そして陸へと追いやられていったのです。

 

村上家が、芸予諸島から周防大島へと移動していった背景には、そういう事情があるのを知ると面白いかと思います。

 

◾️山の上。帯石観音

 

 

お次は帯石観音。ここはかなり山の高いところにあります。周防大島が山がちな離島であることを実感いたします。

 

観音というからに、ここはお寺。

 

 

ここにあるのは、「久留島主膳」の墓碑。彼は村上家の末裔。江戸時代初期の人。豊後藩の藩主であったそうです。

 

1633年に参覲交代の際、海難事故を周防大島沖で起こし、死亡してしまいました。周防大島は村上家の元々の領地なので、不思議な縁が感じられます。

 

ちなみに「久留島」とは、「来島」を改姓したもの。来島とは無論、来島村上家の「来島」です。

 

平和な時代になり、海と切り離され内陸に封じられた来島家は「久留島」と改姓して、海との決別を意識したのかも知れません。

 

しかし海と切り離された元水軍一族が、海難事故を起こして滅するとはなんとも皮肉に思われます。もう船の扱い方も忘れつつあったのでしょう、きっと。徳川家の対海賊政策の成功を実感します。

 

 

こちらが、そのお墓です。

 

約200年後、豊後森の城主久留島信濃守(主膳の末裔)が周防大島にわざわざ建立したそうです。

 

◾️大友さま。

 

 

今度は、周防大島の西側へと移動。

 

「大友さま」。これも村上水軍関連の史跡らしいです。全く関連性を見出せないのですが、一見・・・笑

 

 

手作り感満載の説明板を見ると、こういうことらしいです。

 

おおまかには、村上家の末裔であった「大野友之丞」が長州の毛利家に立ち寄った際、争いごとを起こして斬首になったそうです。詳しい事情はよく分かりませんが、なんらかのトラブルが起きたようです。

 

 

こちらがそのお墓らしい。静かな雰囲気の明るいところでした。

 

◾️イガワ製菓、みかん島も食べてみよう。

 

 

周防大島が村上水軍の史跡がとても多い場所であることは分かりましたが、名物のお菓子も紹介しておきましょう。たまたま注文する機会があり、知りました。

 

こちらの「みかん島」!

 

 

周防大島はみかんの栽培が盛んですが、そことひっかけて「みかん島」らしいです。

 

イガワ製菓という、周防大島で創業80年の老舗の人気商品です。瀬戸内に浮かぶ離島をモチーフにして作られているのだとか。そう言われて改めて眺めてみると、確かに離島ぽい??

 

 

食べてみるとなかなかしっとりとしていて、みかんと(そしてレーズン)も練り込んであり、とても美味しいです。

 

これもおすすめ。周防大島の名物の一つでしょう。

 

まだまだ見所の多い周防大島。是非ともご自身で行って開発してみてください。

 

 

離島ナビ

http://ritou-navi.com

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