世界遺産間近かも!「道遊の割戸」に奉行所跡。今こそ佐渡金銀山に足を運ぼう。
大変ご無沙汰しております。長らくブログの更新が滞っていました。
今回の記事では、佐渡島についての続き。
前回は島の南側の宿根木集落について扱いましたが、今回では主に「佐渡金銀山」について。色々な観点から佐渡島の魅力に触れ、島に足を運んでみたくなって頂けたら嬉しいです。
■佐渡金山跡、まずは江戸時代の「宗太夫坑(そうだゆうこう)」
佐渡の金山跡が世界文化遺産にそう遠くない未来に登録されるかも知れません! 世界遺産暫定リストに登録されているので、いつ登録されても不思議ではない状況。関連する史跡である石見銀山は既に登録されているので、佐渡も登録されるとしたら愉しみです。
上の写真は「宗太夫抗(そうだゆうこう)」という史跡で、江戸時代の鉱山跡。
坑内を散策する事ができ、江戸時代の実際の採掘の状況が再現されています。
佐渡金山というと、罪人が島流しにされて強制労働をさせられるというイメージが流布していますが、これは間違いだそう。
鉱山を掘るのは高度な技術が必要とされるため、高給で技術者を雇っていたそうです。無宿人(むしゅくにん)という、行き場のなくなった人たちを鉱山の排水に使役してはいたそうですが、彼らは罪人ではありません。
「佐渡金山=罪人」は時代劇などで生み出されたイメージだそう。よく知らずに、先入観で語るのは良くないと思い知らされます。
こちらは鉱山の神に祈りを捧げている様子。鉱山労働には危険が伴うので、こういった儀式はきっと意義の深いことだったのでしょう。
■史跡ガイドも充実!世界遺産登録を意識した仕様かな
佐渡金山については、史跡解説について非常に充実しています。世界文化遺産登録を見据えた戦略も入っているかも知れません。
写真は、断面から鉱山を眺めた状況。まるでアリの巣でも眺めているよう。
徳川幕府は、計画的に金山の街を整備していたようです。最盛期は人口5万を数えていたと言いますから、当時としては大規模な街でした。
実際の金貨も展示されています。今の貨幣に比べて、迫力があって美しいです。価値も実際の金ですから、比較にならない・・・笑
本物の金塊!! これを箱の中から出せたら記念品が貰えます。私もトライしましたが、あいにく駄目でした。想像以上に重くて、持ち上げるのも大変です。
■明治の坑道!「道遊坑(どうゆうこう)」
佐渡金山というと、江戸時代が有名ですが、明治時代になっても採掘は続きました。金山が最終的に閉山になったのは平成元(1989)年。意外なほどに最近まで命脈を保っていたのです。
こちらは明治時代の「道遊坑(どうゆうこう)」。どこまでも続いていくかに思われる坑道です。
湿り気のある坑道には、採掘した石を運搬するためのトロッコ線路も敷かれたようです。
少しばかり、インディージョーンズ気分(笑) 完全に人工道なのですが、洞窟を探検しているようにも思われます。
佐渡金山という位で金が有名なのですが、実は銀の方が採掘量は遥かに多かったのだとか。江戸から平成まで約400年間で、金は78トン、銀は2300トン。比較にならない程に銀の方が多いです。相川には鶴子銀山という所もあり、そちらの方が起源が古いのだとか。
佐渡金山というより、これからは「佐渡金銀山」と呼んだ方が良いかも知れません。
■奇景!道遊の割戸(どうゆうのわりと)。西洋式の「大立竪坑」も。
こちらは、佐渡金山でも随一の有名スポット、「道遊の割戸(どうゆうのわりと)」
露天掘りで山の上から掘り進んでいくと、何時しかV字型の谷が形成されてしまったのだとか。初期の頃の鉱山は、極めて原始的な採掘方法をしていた事が窺い知れます。
一方、この見上げる設備は「大立竪坑(おおだてたてこう)」。日本最古の西洋式竪坑で、地下エレベーターを使って垂直に運搬を行っていました。平成の閉山まで使われていたそうです。同じ佐渡金銀山といっても、時代ごとに全く採掘方法が異なった事が実際に足を運ぶと実感されました。
■無宿人の墓
無宿人については初めの方で触れましたが、佐渡金山では無宿人が水替人足(みずかえにんそく)として働かされていました。
無宿人とは、失業や流浪の果てに、安全対策として幕府に捕えられた人々なのだとか。江戸時代はぶらぶらしているだけで逮捕されたのですね。恐ろしい時代です。「小人閑居」とも言いますから、予防としてはありなのかも知れません。
金山で使役された果てに、島で亡くなる事が多かったのだとか。肉体的にも精神的にも負荷の大きい仕事なのでさもありなんです。
佐渡に送られてそのまま骨をうずめるとは、考えもしない最期だったかもしれません。このあたりから罪人イメージも生まれたのかな。彼らの冥福を祈りたいと思います。
■奉行所跡
江戸時代を通じて天領であった金山には、佐渡奉行が置かれました。結構有名な話ですが、奉行の建築は非常に洗練された代物。
葵の御門が凛々しいです。
近頃手を掛けて復元されたようで、まさに江戸時代にタイムスリップしたかの如き気分にさせてくれます。
「御白洲に引きたてる」なんて言いますが、まさにその御白洲です。ここに座らされたらなかなかに緊張してしまいそう。
雰囲気が飛騨高山の陣屋とよく似ています。あちらも天領であったし幕府の施設なので、当然といえば当然でしょうか。
高山陣屋の復元に関わった方が、こちらの佐渡奉行所にも関係しているとも伺いました。
■天空のラピュタ!? 北沢浮遊選鉱場跡。
佐渡金山関連施設としては、こちらの「北沢浮遊選鉱場跡(きたざわふゆうせんこうじょうあと)」も必見です。
明治時代初期に造られた設備ですが、採算が合わない事が分かり、数年で閉鎖されたようです。これだけ大掛かりな設備なのに、もったいない限り。
近代の設備ですが、古代の遺跡の如き偉容を誇っております。マヤ文明とか、マチュピチュといった感じ。ジブリのラピュタと思われる人も多いでしょう。インスタ映えも最高なのは確実なので、是非とも行ってみて下さい。
すぐ隣にあるこちらの「50メートルシックナー」も見もの。泥状にされた鉱石を沈殿させて分離する施設だそうです。
江戸時代の原始的な露天掘りから始まった佐渡金山も、ここまで来たかという迫力ある設備。
■佐渡スカイラインも行ってみよう! 国中平野が見渡せる。
佐渡金山から山の方で走っていくと、佐渡スカイラインというところに行き着きます。スカイラインというだけあって、山高くを走っていきます。佐渡島の中心に横たわる「国中平野(くになかへいや)」が見渡せます。
海抜ゼロメートルから900メートル以上にまで登っていくので、植生も全然違ったり。下よりも遥かに涼しいです。広い佐渡島でもかなり御勧めの場所です。
眼下に広がるは相川の街並み。相川は湖を挟み込んでつくられた街で、上空から眺めると不思議な地形。
佐渡金銀山などについてつらつらと記してきましたが、このあたりでひとまず終わりにしたいと思います。私もそれほど理解を出来ていないのですが、少しは魅力が伝わりましたでしょうか。
佐渡島こそはまさしく「金の島」。ここに来るとその歴史や実際がよく分かります。黄金の国ジパングの象徴的存在の一つ。平安時代頃から「金島」としてその名を知られてきました。この島に流された室町時代の世阿弥は「金島書」という書を記している位です。
小さな佐渡島の金銀山が、日本や世界に与えてきた影響ははかり知れません。徳川家康は、佐渡金山の実権を握る為に関ケ原の戦いを起こしたと言いますし、佐渡の金は西洋経済が成立する上で不可欠な存在になっていました。まさしく世界遺産にふさわしい場所と言えるでしょう。
世界遺産に登録される前に、今こそ行き時でしょう。是非とも足を運んでみてください!!