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あだ名は無人島!鳥島で12年漂流生活を送り土佐に帰還した野村長平の数奇な人生。

こんにちは、ドクターリトーです。今回の記事では、伊豆の鳥島でなんと12年も無人島漂流生活を送った人物、野村長平(のむらちょうへい)について扱いたいと思います。この人の人生自体が小説というか、あまりに珍しくて面白すぎる是非楽しんで読んでくださいねー。

 

◾️野村長平、はるばる鳥島へとたどり着く。

 

野村長平(ちょうへい)は、元々は土佐の香我美町(現在は香南市)の漁師でした。

 

 

香我美町には、現在野村長平の銅像が作られています。銅像が作られるレベルの偉人扱いのよう。一般的には知名度はほとんどないと思いますが。

その表情には、無人島生活に耐え抜いて見事帰還を果たした意思の強さが込められているように思われます。

 

・・・・・

 

1785年の一月末、現在の田野町(香我美町のさらに東)へと300石船で米を運送した(この船の船頭は長平)帰りに暴風に遭い、舵や帆を失って、そのまま漂流船になってしまいました。

 

黒潮に乗って二週間あまりの漂流の末、長平たちは伊豆の無人島へとたどり着きました。この無人島は、アホウドリが多く生息する鳥島(とりしま)という無人島でした。

 

長平はこの時23歳の若さでした。

 

 

鳥島は、伊豆諸島の有人島の最南端、青ヶ島のさらに200キロ以上南に位置しています。まさに「絶海の孤島」と形容するにふさわしい島。

 

いやー、高知からはるかに遠いところまで流されてしまいましたねー。

 

でも、島の少ないだだっ広い太平洋の中で、豆粒のような鳥島へと流れ着くことができたのはある意味運がよかったのかも知れません。鳥島の東には、さらに島などありませんから。ただ海が広がっているだけです。

 

◾️鳥島サバイバル生活がスタートする

 

こうして長平たちの鳥島でのサバイバル生活がスタートしました。船には長平と他に三人が乗っていたので、四人での生活でした。

 

鳥島というのは、自然の険しい島です。山がそのまま海の上に突き出したような島。植物も少なく、森などありません。

 

湧き水などもなく、木材を手に入れる事も出来ない。こんな過酷な島でどうやって生き延びたのでしょうか?

 

答えは「鳥」でした。

 

鳥島は「鳥」島というだけあって、アホウドリが大量に暮らす島でした。

 

 

今では数少ないのですが、当時は数百万羽も生息して、島中を真っ白に埋め尽くしていたといいます。

 

長平たちを生かしたのは、このアホウドリでした。アホウドリは動作が緩慢で捕獲しやすいのでその肉を食べ、そして卵は大きいので、その殻を使って雨水を貯めて飲料水としました。

 

しかし火を起こす道具などなかったので、肉は生のまま食したといいます(信じられない!)

 

長平たちは三日月の回数を記録して月日の流れを把握しましたが、助けの船が来ることはありませんでした。

鳥島はとても辺境の島で、何より江戸時代なので日本は鎖国してますので、船が来ないのは当然ではあるのですが。

 

そうこうしているうちに、栄養失調や精神指摘ショックなどで仲間が次々と死んでいき、ついに残されたのは長平一人になってしまいました。

 

アホウドリの干物を大量に作って保存食にしたそうですが、衣食住がとりあえず満たされたことで運動不足になったことが原因の一つだったそうです。アホウドリしか食べないので、栄養の偏りも激しかったし。

 

この逸話からは、ちゃんと野菜や穀物を食すことの重要性、そして生活を律することの大切さも学とれるような気がします・・・笑

 

 

◾️長平は生き延びた

 

普通の人間ならば、ここで心身ともに力尽きてしまうはずなのですが、長平は違いました。

 

たった一人になっても、鳥島でのサバイバル生活を続けたのです。

 

孤島での一人生活、どれほど苦しかったことでしょうか。もちろん自殺も考えたらしいのですが、長平は鳥島で生き続けました。・・・何が彼を生き伸ばしたのでしょうか?

 

望郷の念? 家族に再開したいという思い? もしくは亡き仲間への弔い?

 

何なのかはわかりませんが、とにかく長平の鳥島での生活は続きました。

 

長平は徹底したプラス思考、楽観的に物事を考えるタイプの人間だったようです。

 

人間をサバイバルさせるのは、考え方というか、物の見方がとても重要なファクターであると思わされます。

 

◾️大阪、薩摩の船が漂着する

 

長平の単独生活は一年半も続いたのですが、1788年1月には大阪の船が、その2年後1790年1月には薩摩の船が、それぞれ鳥島に漂着しました。

 

長平を始め皆一月に島に漂着をしていることを考えると、冬の海の危険性が思い知らされます。

 

無人島だと思っていた鳥島に、アホウドリの羽毛を身にまとった「先住者」がいるのを知った時、漂流者は腰を抜かしたようです。日本語を話すことを知って、同じ日本人だとようやく安心しました。

 

そして鳥島には一時は18人もの大所帯が形成されました(その後病気で三分の一ほどは逝ってしまいますが)。

 

長平目線で見たら、だんだんと仲間が増えていき、どこかRPGみたいな展開にも感じられます。

 

長平にとって何より有り難かったのは、火が使えるようになったことでした。それまではアホウドリの生肉しか食べられなかったのですから。

 

人数が増えたので、住居や道の整備、そしてため池を作ったり。お酒まで作ったりしたらしいです。このあたりは開拓者精神というか、何だか楽しそうにも思われます。

 

◾️船を建造することを決意!

 

人数は増えたものの、待っても待っても鳥島の周りに船の姿は見えません。

 

救助されることは絶望的と考えた鳥島の漂流者たちは、なんと自ら船を作ることを決意します。なんという大胆な発想か!

 

といっても漂流者たちが乗ってきた船は、鳥島に着岸した時に大破して跡形もなく消えてしまいました。おまけに鳥島には、船の材料になる木材などありません。

 

そういうわけで、島に漂着する木材を使うしかありませんでした。

 

普通なら無理そうですが、奇跡的に木材が次々と島へと流れ着き、最終的には見事に船を作ることができました。・・・嘘みたいな話ですが。

 

◾️八丈島へと帰還!

 

漂流者たちが作った船は、見事に伊豆諸島最南端の有人島、青ヶ島へとたどり着き、そこからさらに北上して八丈島へと到着しました!

 

そして最終的に皆故郷へと戻ることができたのです。

 

◾️長平、13年ぶりに故郷へと帰る

 

長平が土佐の香我美町へと帰り着いた時、ちょうど長平の十三回忌が開かれている最中そうです。これも漫画みたいな話ですが・・・笑

 

故郷では、長平はとっくに亡くなったものとされていたのです。生きていた長平の姿を見て、皆どれほど驚いたことでしょうか? 感動の再会です。

 

この時長平は37歳になっていました。土佐を「離れて」から12年以上が経っていました。

 

◾️あだ名は「無人島」に

 

この数奇な運命を辿った長平のことを、人々は「無人島(ぶにんのしま)」とあだ名したと言います。

 

あだ名が「無人島」ってすごいですね。

この言葉には、辛苦の生活を経て本土復帰した長平への尊敬の念が込められているような感じがします。あと数奇な運命を辿った長平に対する、どこか近づきがたさも感じられるような。

 

そして土佐藩からは「野村」の姓を名乗ることが許されました。苗字は武士階級しか名乗れなかったので、本土に帰還した上に身分も上がって上々ですね!

 

そして妻子ももうけ、各地の有力者たちに無人島生活の話をして収入を得ていたようです。長平は六十歳まで生き延びました。まあハッピーエンドと言えるのではないでしょうか。

 

野村長平。ベンジャミン・バトンにも劣らない数奇な人生を送ったと言えそうです。

 

◾️長平の不屈の精神に学びたい!

 

絶海の孤島での想像を絶する生活を乗り越え、他の漂流者たちと協力して見事に本土へと復帰した長平。

 

彼の故郷へと戻りたいへという執念、そして不屈の精神。まさに恐れ入るばかりです。

 

現在では無人島での漂流生活を長期に渡って送ることなど考えにくいですが、彼のサバイバル能力、そしてくじけない心には学ぶべき点が多いにあるのではないでしょうか?

 

アウシュビッツをテーマにした「夜の霧」にも通じるところがあるような気がします。もうほとんど生きる意味を見出せない状況で、いかにして生き延びるのか。それが一つのテーマになっているという点で。

無人島に一人残された時、そして脱出の見込みがほぼない時に、一体何のために生きるのか。

 

吉村昭の「漂流」という作品があるらしいのですが、その作品では長平の鳥島での生活が極めて綿密に描かれているようです。私もまた読もうかと思っています。興味のある人はご覧になっては?

 

※図書館で借りて読んでみました。

鳥島漂流について、あたかも自分も漂流者の一人になったかのような肌で感じるインパクトがあり、とてもおすすめです。鳥島での生活の厳しさ及び、船を自前で建造して本土を目指すのですが、方角も分からないのに船出をする緊張感が圧倒的です!!

 

離島ナビ

http://ritou-navi.com

 

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