謎の関羽の絵!?松山からすぐ近く、みかんの香り漂う興居島へ行ってみよう!
こんにちは、ドクターリトーです。今回の記事では、愛媛県は松山沖にある忽那(くつな)諸島の興居島(ごごしま)について取り上げたいと思います。
◾️興居島へ行く。
興居島へ行くには、松山市街から少し距離がありますが、高浜港へ向かいます。高浜港のすぐ真向かいに見えるのが、まさに興居島。松山沖の忽那諸島の中でも、四国本土からもっとも近い離島です。
フェリー待合所には、「株式会社 ごごしま」というコーナーが。興居島は小さな離島ですが、株式会社まで作らせるとは、たいしたものです。
それでは、こちらの船に乗って、さっそく興居島へと向かいましょう!
◾️みかんの島、興居島。
興居島側の由良港近くには、立派なお寺が。観音寺というらしい。
四国八十八ケ所にも劣らない立派なお寺です。
境内から眺める景色も、なかなかのもの。向かいは高浜港です。
「松山市立由良小学校」の石碑が。石碑だけがあるということは、つまり閉校済みということ。離島では本土に先駆けて少子化が進行しているので、学校はどんどんなくなっていっています。
子供がいなくなるとうことは、島の未来の担い手もいなくなるということで、寂しいことではあると思います。といって、どうすることもできない訳ですが。
閉校後には、なにかオシャレな雰囲気の建物が。島で短期滞在ができる用の施設だそうです。土地はしっかりと活用されているようです。
興居島でよく見かける景色は、やはりみかん畑。愛媛の離島だけあって、柑橘類の栽培がとても盛ん。忽那諸島は柑橘類の産地として非常に有名です。
伊予柑かな。とても鮮やかな発色で美味しそうです。
みかん収穫用のケースもずらりと並んでいて、壮観です。
◾️関羽の絵!? 船越和気比売神社へ立ち寄る。
由良港は島の北端近くなので、海沿いに剃って南下していきましょう。それにしても、海沿いの景色が美しい。年の瀬の海は澄み、静まっています。
穏やかな湾と、不思議な形の小山。
道沿いには、荘厳な作りの心惹かれる神社が。船越和気比売(ふなこしわけひめ)神社というらしい。かなり難しいネーミングというか、普通は読めなさそう。
昔、興居島の漁師で和気五郎太夫という人がいた。
和気五郎太夫は毎日のように船で漁をしていたが、ある日のこと見慣れぬ壷が波間を漂いながら
船に近づいてきた。見慣れぬ壷を船に引き上げ、中を覗いてみると歳の頃は10~12歳とおぼしき
可愛い女の子がいた。子供のいない和気五郎太夫は、これも何かの縁(えにし)=天から授かった
子供だと大喜びして、自分の娘として大事に育てた。美しい娘であったので【和気姫】と呼ばれていた。
やがて【和気姫】は成長し、伊予の豪族の男性と結婚し三人の男子を産んだという。
そのうち第三子の【小千御子=おちみこ】の系統から、伊予の豪族・河野一族が出たとも言われている。
【小千御子】の母が住んでいた島ということで、≪母子島=ぼごしま≫と呼ばれていたが
江戸・元禄時代の頃より、興居島と呼ばれるようになったという。
【和気姫】はこの島で世を去り、島の人々達は【和気姫】を祭った社を建てた。
船越(ふなこし)社と呼ばれていたが、後に船越八幡宮と改められ、
明治時代になって船越和気比賣神社になった。
(出典 http://home.e-catv.ne.jp/naka/mukasi-hanasi/densetu/funakosi-zinnzya/funakosi-zinzya.htmnbsp;)
という不思議な伝説があるそうな。だから和気比売神社というのかと、納得。
島随一の、由緒正しい神社なんでしょうねー。
年末だからか、社殿の掃除をされていました。
社殿の奥には、謎の絵画が。年季が入っているので、相当昔に描かれたものでしょう。
渡りに船だったので、掃除をされている神社の人に聞いてみると、左の絵はなんと三国志の関羽なのだとか! どこかで見覚えがある人だと思えば、やはり関羽だったかと何故か感動しました。
なぜ関羽が神殿に描かれているのか。気になるところですが、興居島は忽那水軍というこのあたりを縄張りにしていた水軍の根拠地の一つで、戦の神として崇められていた関羽にあやかろうとしたのだとか(神社の人談)。
関羽の力を得ようとした忽那水軍。海の男たちの心意気が伝わってくるように思われました!
ちなみに右の絵は、神功皇后という人だそう。古事記に登場する人物だそうです。
◾️高浜港へと帰る
帰りは、興居島の南側の港。泊港から再び高浜港へ。
かなり新しげな装いの、とても快適な船でした。船が良いと、島旅はさらに楽しくなります。
興居島。また行ってみたいなあ。そう思わせる離島でした。
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