九州の島,  世界遺産,  歴史上の人物,  キリシタン史跡・教会

孤島に佇む信仰の名残。世界遺産・野崎島を散策する。

こんにちは。今回は長崎の潜伏キリシタンかんれん世界遺産集落が残る野崎島について。

野崎島は廃墟感たっぷりの教会が佇んでいて、とても魅力的なので是非とも訪れて欲しい所です。

 

■まずは小値賀島へ

 

野崎島は五島列島のほぼ北端に浮かぶ島。小値賀町に属します。訪れる為には、まずは小値賀島へ渡り、そこから町営のフェリーに乗る必要があります。

 

 

小値賀島は目立った観光名所などはありませんが、牛が寝そべっていたり、農地もある長閑な所です。

 

 

“ポットボール”と呼ばれる、自然が造り出した芸術品もあったり。海岸近くの穴で、数百年かけて波に洗われるうちに何時しか球状になるそうです。地元の方は「玉石様」と呼んでいるとか。信仰対象です。

 

■野崎島へ渡る

 

 

町営船「はまゆう」にて、野崎島に渡ります。天気が良くないと結構する事が多いので、要注意。

 

■ビジターセンター

 

 

野崎島は現在は無人島になっていますが、かつては人が住んでいました。その集落跡地が世界遺産の指定を受けている訳です。従ってビジターセンターも設けられていたり。野崎島自体は無人ですが、船に同乗してきた係の方が案内してくださいます。

 

なぜ孤島の集落跡地が世界遺産指定を受けているのか、それはかつてこの島には潜伏キリシタンが暮らしていたからです。

 

 

こちらは港そばの「神官屋敷」。野崎島はかつては神道の聖地であり、神道の関係者が暮らしていました。

潜伏キリシタンとは厳しい切支丹禁制が敷かれていた江戸時代に、表向きは神道や仏教徒を装いながら隠れてキリスト教信仰を続けていた人達の事です。丁度その頃人口増加に対処する必要があった大村藩と、逆に開拓民を欲していた五島藩との間に移住協定が結ばれました。そこで長崎本土から移住してきたのが、外海(そとめ)地方で暮らしていた潜伏キリシタンたち。自由な信仰生活を送る事ができる新天地を求めて五島列島の各地に渡ったのです。

 

 

野崎島へ渡ったキリシタン達は、ここが神道の聖地である事を逆手にとり、表向きは神道を信仰するひりをしながら、信仰生活を送りました。孤島での生活は貧しく厳しいものでしたが、彼らは忍耐しつつ暮らす道を選びました。

 

 

島内を散策していったのですが、澄み切った海の美しさが印象的でした。

 

■野崎天主堂

 

 

坂道を上り、峠を越えて下り道に入ると教会らしきものが視界に入ります。

これこそが野崎島のシンボルである旧野首天主堂

 

 

潜伏キリシタンは禁教令の下で潜伏を余儀なくされていたので、教会堂を建てる事など及びもつきませんでした。転機が訪れたのはアメリカの要求を受け江戸幕府が開国をして以降。

かつては小ローマと呼ばれた長崎の街に大浦天主堂が建てられ、1865年に浦上村のキリシタン達がプチジャン神父に信仰告白をしました。200年以上に及ぶ鎖国下においても信仰が守られてきた事実が西洋諸国を驚かせた、「信徒発見」と呼ばれる出来事です。夜明けの訪れの始まりでした。

明治政府が成立されて以降も「浦上四番崩れ」など、キリシタン達を取り巻く状況は真に厳しいものでしたが、西洋諸国の批判を受けて、1873年ついに禁制の高札が下げられ、キリスト教が黙認されました。正式に信仰の自由が認められるのは、1889年大日本帝国憲法が発布されてからですが。

 

 

野崎天主堂が建てられたのは、明治も終わりが近い1908年の事。漁業に携わってきた島民達が生活を切り詰めて貯めた資金で造られました。設計・施行を担当したのは、長崎周辺の教会建築で著名な鉄川与助(てつかわよすけ)です。鉄川与助についてはいずれ改めて取り上げたいですが、彼自身は仏教徒でしたが、現在も長崎周辺に残る有名な教会の多くは、彼の手によって建造されました。

 

 

天主堂は島が無人化して後、一度は荒れ果てたそうですが、世界遺産登録に向け改修が進められ、現在の姿を取り戻しました。現在はミサも為されず静まり返っていますが、往時は賑わい、聖歌なども流れていた事でしょう。かつては潜伏キリシタンであった信徒たちにとってどれほど嬉しかったことでしょうか。

 

 

信者の姿がいなくなった後も、天主堂は変わらず丘の上で佇み続けています。かつて島に存在していた信仰の名残、日本においてもここだけの稀有な場所ではないかと思います。他では経験できない感覚でもありますし、是非とも訪れていただきたいと思いました。

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