橋で繋がる島,  歴史上の人物

本州最南端のトルコ町!串本とエルトゥールル号遭難の紀伊大島を訪れてみた!

こんにちは、ドクターリトーです。今回の記事では、本州最南端のトルコの町・串本町およびトルコ船が漂着した紀伊大島について扱いたいと思います!

【紀伊大島情報】

《アクセス》串本までは特急くろしお。そこから車、もしくはレンタサイクルなど。

《宿泊》紀伊大島にもありますが、串本市街での宿泊をおすすめします。

《食事》紀伊大島西側には数件ほどあるようです。串本市街にも多数。

◾️本州最南端のトルコの町、串本!

串本と言えば紀伊半島の先端部にあり、本州最南端の町です。東京から約300キロ南にある八丈島とほぼ同じ緯度(!)だそうです。しかしいくら南の方に位置しているといっても、真冬の12月に訪れるとさすがになかなか寒かったですが。

串本といえば、「トルコ友好の町」としても有名です。串本とトルコとの関係は、エルトゥールル号というトルコの船がかつて紀伊大島沖で座礁したことと関係があるのですが・・・それは後ほどゆっくり。

◾️串本町内を観光してみた!

レンタサイクルを借りて、串本町内を観光してみました。やってきたのは、目玉スポット「橋杭岩」。橋の杭のように続いていることからこの名前だそうです。それにしても海、なんか寒そうでしょう? 実際冬の海際は寒かったですよー。

串本市街の海際からは、こんな景色が見えます。写真左手に見えるのは、紀伊大島。和歌山県最大の島です。

その隣に見えるのは、「くしもと大橋」。1999年に開通したらしいです。

この橋ができるまでは。紀伊大島は正真正銘、海で隔たれた離島でした。そんなに昔の話ではありません。離島っていうのは橋がかかると雰囲気ががらりと変わるので、当時は今とは違った紀伊大島だったはずです。

◾️潮岬へと向かう!

串本市街の先には、有名な潮岬(しおのみさき)があります。紀伊大島に行くためにも、途中必ず通過することになります。

坂道が結構きついです! しかし電動機つきのレンタサイクルを借りられるので、問題ありません。坂道でも面白いようにスイスイ進んでいきます。電動機は、駅前以外にも潮岬タワーやトルコ記念館でも交換することができるので、電池切れの心配もなく便利で安心です。さすが串本観光協会!!

◾️潮岬灯台

そして長い坂道を登り到着したのが、こちらの純白の潮岬灯台。青空とのコントラストで実に眩しいです。明治時代に建築された時から変わっていない、貴重な灯台です。

ちなみにこの灯台は、登ることができます。灯台は眺めるだけの事が多いので、珍しい。 螺旋階段が続いています。隠れ家というか、とてもワクワクとする仕様になっています。

この螺旋階段の壁沿いに貼ってあるのは、明治期に建設され未だに現役活躍中の灯台たちの写真。この潮岬灯台もその一つ。150年も現役で活躍できるなんて、灯台の寿命は長い。人間よりもはるかに長いのですな。

そして灯台の展望台から眺めることができるのが、この景色。潮岬灯台の先には何もなく、はるか南洋にいたるまで太平洋が広がるばかりです。南の果てまでたどりついたのだということが、この景色を眺めていると実感されます。

潮岬の先端までたどり着くと、こんな石碑が! 本州最南端にやってきたということが実感されます。

◾️木曜島へのダイバー移民

潮岬には、戦前にオーストラリアの「木曜島」へと出稼ぎに行った「ダイバー」たちの資料館もありました。これはかなり興味深い資料館でした。

ダイバーといっても、現代のように遊びや海への興味から潜る訳ではありません。木曜島の海では「白蝶貝(はくちょうがい)」という貝が採れ、ボタンや工芸品の材料に適していました。その貝を採るために深海へと潜る人のことをダイバーと当時呼んだのです。

白蝶貝を採るために深海50mやそれ以上の深さまで潜ることもあったので、上の写真のような頑丈なヘルメットを使いました。現代のようなエアタンクなどまだなかった頃の話です。海上のボートから管を使って深海まで空気を送っていたそうです。

こちらが白蝶貝。真珠が取れるので真珠貝とも呼ばれたらしいですが、真珠を採ることは目的とはされませんでした。あくまでボタンや工芸品の材料にすることが白蝶貝を採る目的でした。まれに白蝶貝の中に真珠が含まれていることがあり、その場合はダイバーの取り分になったそうです。実際に大きな真珠を見つけて一攫千金を達成した人もいて、そういう夢もあったのかな。

ボタンの穴を開けた跡が貝殻に残っているのが、生々しい限りです。

ダイバーの資料館に行って感じたことは、戦前の日本人はアグレッシブで、そしてグローバル的であるということです。日本が豊かになった今では海外移民なんて普通はありませんし、底知れない生命力を感じます。最近巷では「グローバル化」が叫ばれたりしていますが、戦前の方が日本人の方が現在よりも海外志向がはるかに強かった印象を受けました。しかしそれは主に日本の貧しさが原因であり、良いことだったかはわかりませんが。

◾️紀伊大島へ

潮岬観光も終え、くしもと大橋を渡っていよいよ紀伊大島へ。なかなか立派な橋でした。

◾️トルコ記念館

山がちな紀伊大島を走るのはなかなか大変でしたが、ようやく東の端近くにある「トルコ記念館」へとたどり着きました。

いかにもトルコらしいアラベスク文様が刻み込まれた建物です。大昔卒業旅行で訪れたイスタンブルのトプカプ宮殿もこんな感じでした。トルコトルコしてます。

なぜこの日本の辺境にある紀伊大島にトルコ記念館があるのかと言えば、「エルトゥールル号遭難事件」がかつて起こったからです。1890年に紀伊大島の海上でオスマントルコ帝国の軍艦エルトゥールル号が遭難し、500名以上の犠牲者が出た事件です。上の写真がエルトゥールル号の模型。

当時日本とオスマントルコは共に欧米列強の脅威に怯える存在で、同じアジアの国として連帯感が生まれました。そういう訳でオスマントルコから軍艦がはるばる日本の横浜にまで派遣されたのです。エルトゥールル号は日本で歓待を受けましたが、その帰りに急の嵐につかまり軍艦が座礁してしまったのです。

エルトゥールル号が座礁した場所である紀伊大島の人々は蓄えもわずかだったにも関わらず食べ物なども拠出して必死の救助を行い、69人が無事に生還しました。

そういう訳で、串本町とトルコとは今でも友好関係にある訳です。ヤケカント町、メルスィン市は串本町と姉妹都市です。

記念館の屋上からは、実際にエルトゥールル号が座礁した場所を確認することもできます。写真上部よりの岩場がそうらしいです。本当にここからほど近いところで座礁したのですねー。

青空に両国の国旗がたなびいていました。エルトゥールル号遭難事件以来トルコは親日国で、両国の絆が今後も続くことを期待します。

◾️アタトゥルク像

トルコ記念館をさらに東へ進むと、トルコ共和国建国の父、「ケマル=アタトゥルク」の騎馬像も設置されていました。トルコでは英雄的存在として崇敬されているらしいです。そういえば世界史でも習ったような。

こちらは、「トルコ軍艦遭難慰霊碑」。このあたりはあらゆるものが、トルコナイズされています。日本でここまでトルコに染まっている地域といえば、この紀伊大島以上のところはなさそうです。

◾️日本最初の灯台!

こちらは樫野(かしのさき)崎灯台。紀伊大島の東の端にあり、日本では最初に設置された灯台です。

この樫野崎灯台は、潮岬の灯台と共に、日本でもっとも古い灯台の一つとして明治時代初頭につくられました。

欧米諸国の船は、この灯台のある熊野灘で座礁しやすかったらしく、日本が開国してすぐさま要求されたことの一つがこの紀伊大島への灯台の設置だったのです。

トルコとの関係や、白蝶貝採取のための木曜島への移民。そしてこの灯台の件など、串本が外国と交流のあった開かれた土地であることが伝わるエピソードは数多くあります。

串本は明治以降、海を通して世界への架け橋であった町であり続けたのです。本州最南端のグローバルな町、それが串本。

◾️謎のトルコみやげ店

慰霊碑のすぐ近くには、謎のトルコ土産物店が(!)。絨毯や織物など、様々なトルコの品が売られていました。この店にはトルコ人の中年男性がいました。日本語も上手で大阪に住んでいるそうです。この店のオーナーもしている上に商売もしていて、大阪の女性と結婚しているそうな。面白い人でした。

トルコといえば、定番「伸びるトルコアイス」ももちろん売られていました。餅のように伸びてなかなか美味です。

トルコのみやげの定番、目玉の魔除けも大量に建物の壁に取り付けられていました。

本州最南端の町、串本とトルコの島、紀伊大島。是非とも訪れてみてください。とても面白い地域であることは保証いたします。紀伊大島には、トルコと日本をつなぐ稀有な島としてこれからも活躍してほしいと思います。

離島ナビ

http://ritou-navi.com

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