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絶景広がる潮岬。“潮風の休憩所”で木曜島ダイバーの歴史を知ろう。

こんにちは、ドクターリトーです。今回の記事では、潮岬と、木曜島のダイバーたちの関係性について扱いたいと思っております。潮岬があるのは串本町ですが、本州最南端の串本からは、かつて白蝶貝の採取のために多くの人々が木曜島へと渡り、ダイバーとして活躍したのです。

 

■絶景広がる潮岬

 

 

串本町に三重側から入ると、目につくのがこちらの奇岩たち。橋杭岩と呼ばれます。前に一度見たことがあるのですが、その時は岩たちは海の中に佇んでいました。この時は干潮だったようです。

 

 

こちらが本州最南端の潮岬。最南端の碑は二つあるのですが、これはそのうちの一つ。ここから望むことができるのは、ただ遥かに南海へと広がる太平洋。空と海、二つを分かつ水平線しか見えません。

しかし何もこの先には何もないわけではありません。非常に遠くですが、ミクロネシアの島々が浮かんでいます。そして赤道を越えると、パプアニューギニアやオーストラリア。そして木曜島(タースデ)も浮かんでいます。

 

■潮風の休憩所、木曜島のダイバー資料

 

 

潮岬の岬の果て付近に、“潮風の休憩所”という、素敵な名前の施設があります。

潮岬を含む串本町は移民の多い町で、かつてはオーストラリアの木曜島(タースデ)という島に多くの人が渡り、ダイバーとして働いていました。

 


https://downunderaustralia.net/torresstrait/

 

木曜島があるのは、上の地図の場所。オーストラリアとパプアニューギニアの間で、トレス海峡というところに浮かぶ、小さな島です。

木曜日に発見されたことから、木曜島と呼ばれていて、非常にストレートなネーミングです(笑)

この小さな島が何故有名になったかというと、白蝶貝(しろちょうがい)という高級ボタンに使われる貝が獲れるからです。

司馬遼太郎に“木曜島の夜会”という小説があるのですが、木曜島と白蝶貝のダイバーについて扱われています。私も一度読んだことがあるのですが、木曜島についての戦前と戦後の様子がよくわかる名品です。関心のある方はは読んでみてください。

 

 

白蝶貝とはこんな感じの貝で、結構大きさがあります。くり抜いてあるのは、ボタンの跡に違いありません。この美しい純白の貝殻を使えば、良いボタンになると思います。白蝶貝が重宝された所以です。

 

 

こちらは、トレス市からの贈り物だそうです。トレス市は、木曜島を行政区域としている都市。トレス市の方から姉妹都市提携の打診があり、姉妹都市に現在はなっているようです。

 

 

白蝶貝の生育過程がよく分かるように、グラデーションをもって並べたもの。人類の進化図と似ているように感じます。

こうやって白蝶貝も徐々に大きくなっていくのですね。

 

■ダイバーのスーツやヘルメットなど

 

 

休憩所には、木曜島の海に潜った方々が召していた実際のヘルメットやダイバースーツも展示されています。

ダイバーとしても、現在日本でも体験することができるファンダイブとは全く違い、命がけの仕事でした。ヘルメットも月にでも行くのかというような、頑丈なものですし。

 

 

スーツもだぶだぶで、見るからに動きにくそうです。この巨大なスーツを着て、木曜島の海に潜った先人たちは心底偉大だと感じました。

 

 

当時の木曜島のダイバーたちは、現在のファンダイブのように酸素ボンベを背負って海に入ったわけではありません。

酸素を海底まで送るポンプを船上に用意して、そこから海底へと直接空気を送っていたのです。これは未発達な技術で、空気がうまく送られずにダイバーが窒息死したり、事故の原因にもなったようです。文字通り命がけのダイビングだった訳です。

 

 

休憩所には、映像展示も行われており、当時の木曜島について写真を通じて様子を知ることができます。やはりダイバースーツは非常に大きかったのだと、分かります。

 

 

こちらのラガー船というものを使って、白蝶貝を採取したようです。モーターボートと違い、風力を応用した帆船であるのが特徴です。帆を大きく開き、非常に美しい乗り物ですね。

 

 

木曜島の生活についての展示もあります。木曜島の当時の生活について伝わってきます。日本から数千キロ離れた海の彼方に、確かに日本人たちの暮らしが息づいていたのだと。

 

 

こちらは串本町の港、袋港の様子。袋状の湾になっているので、袋港でしょうか。ここから南洋へ向けて、数多の船が出港していったのです。

離島ナビ

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